みなさん、実は大阪には「島」があることをご存知でしょうか。
大阪の中心部を流れる堂島川と土佐堀川に挟まれた中州「中之島」。ここは文化と芸術が息づく特別な島として、多くの人々に愛され続けています。
現在の姿を見せる中之島は、一朝一夕にできあがったものではありません。
時代の流れに柔軟に対応しながらも「中之島らしさとは何か」を考え続けてきた人々の想いが、今日の美しい街並みを形作っているのです。
そして、近年はなにわ筋線の開通(2031年春予定)や夢洲駅との接続計画により、さらなる注目を集めており、中之島西部エリアの開発にも期待が高まっています。
中之島4~5丁目ではまさに今、長い年月をかけて受け継がれてきたまちづくり構想を踏まえて徐々に街並みが形づくられてきています。
文化・芸術施設が集まる島はいかにつくられたのか。その変遷をご紹介します。
「天下の台所」大坂の中枢を担う中之島
「中之島」のまちの基盤ができたのは、江戸時代の豪商淀屋常安が中州に橋をかけ開発工事を行ったことからはじまります。淀川本流の中州であることに加えて、大阪湾から遡上する二大航路の安治川と木津川の分岐点でもある中之島には諸藩の蔵屋敷が集中し、(その数なんと90藩…!)全国各地の物資が集まる「天下の台所」大坂の中枢を担っていました。
当時の蔵屋敷には全国の米や物産が集まるだけでなく、ヒト・チエ・情報も集まってきました。堂島の米市場や北浜の金相場とあわせて中之島エリアは日本の中で最も先端のビジネス・スキームを創造する場所だったといえます。

しかし、天下の台所「大坂」の中枢を担っていた中之島にも陰りが見えてきます。
1871年、「廃藩置県」が実施されると藩は消滅し、蔵屋敷は新政府に接収されました。それに追い打ちをかけるように鉄道インフラの整備が本格的に進みました。中之島地域の交通の要であった水運ルートが次第に重要性を失い、それまで栄えていた蔵屋敷も徐々に姿を消していきました。
結果として、中之島に生まれた広大な蔵屋敷跡地には新政府や大阪府による官公庁や病院・学校などの公共施設や、民間への払い下げにより近代的倉庫が立地していきます。
中でも多く立地したのは「学校」で、大阪府第一番中学校(現:大阪府立北野高校)や大阪工業学校(現:大阪大学)など新時代の人材育成機能を担いました。
このようにして「大阪」の「キタ」や「ミナミ」が発達する中で中之島は独自の文化を築いていきました。

学校により若者が集まり独自の文化を築いていた中之島。そんな中之島に更なる転機が訪れます。
1964年、近畿圏の既成都市区域における工場等の制限に関する法律が制定されます。この“等”に大学が含まれていたため大学の新設・拡張が困難になり、中之島4丁目にあった大阪大学も郊外へと移転。
その結果、街から学生がいなくなったことで中之島独自の文化や都市の活力が低下していきました。

中之島のポテンシャル低下の危機を打開すべく打ち出された「中之島再開発計画」や「N-PROJECT」
このような状況において、「中之島」の次の姿を描くまちづくりビジョンが打ち出され始めます。その中でも竹中工務店の開発計画本部が関わったものをご紹介します。
まずは1963年~1965年にかけて提案された「中之島再開発計画」です。当時、大阪大学の移転によりまとまりのある開発用地となっていた中之島4丁目にフォーカスした計画と、3丁目~6丁目まで含んだ広域での計画の2つで構成されます。
前者の中之島4丁目の将来像については、世界的な建築家・槇文彦氏と協働で構想が練られました。

大阪都心部での急激な人口増加を背景に、近代的なオフィスビルの需要が盛り上がっていたことや、隣の5丁目では国際貿易センター(現・大阪国際会議場)が立地し、更に大阪ロイヤルホテル(現・リーガロイヤルホテル大阪)の計画も進められていました。
これらを踏まえ4丁目は業務センター地区として屈指のポテンシャルを有すると考えられ、オフィスを中心に、貸会議場やホテル、商業施設を付帯させた大規模複合開発が構想されました。
この計画の特色は、敷地中央部に広場を配置したことにあります。これは、オフィスワーカーや一般市民に向けて、都市中心部では貴重な自然と水辺の憩いの場を提供することを目的としていました。また水の都の景観を活かすことも意識され、南北それぞれの川へのデッキ接続も構想されました。

後者の3~6丁目における広域のまちづくり構想について竹中工務店で検討を行いました。
これらの計画では、防潮堤が川の景観を阻害しており、川沿いの街としての魅力が生かされていないことを問題視し、防潮堤レベルに散策のためのリバーサイドプロムナードが提案されました。
また、オフィス需要はあるものの、人を惹きつけるような文化的な施設や緑地が少ないことへの問題意識から地表面より一段上ったレベルにペデストリアンデッキを設け、そのデッキが拡張されて生まれた広場に面して建築物や緑、アートを配置することで歩行者ネットワークの姿が描かれています。


中之島をめぐるまちづくり構想の流れはその後も続きます。1977年には同じく4丁目にフォーカスした「中之島芸能センター構想」と3~6丁目全体の姿を描く「N-PROJECT」が同時期に打ち出されました。
「中之島芸能センター構想」は、関経連により発表(当社支援)されたもので、4丁目街区全体に大中小と計5つの劇場を設け、歌舞伎や能・狂言、日本舞謡といった伝統芸能から、オペラ、ミュージカルにモダンダンスなどあらゆる芸能を上映する壮大な計画となっています。上方芸能の礎を築いた人物の名を冠している点も特徴的でした。

「N-PROJECT」は大阪を東西につなぐ「キタ」や「ミナミ」に負けない大阪の“新しい顔”をつくることや都市文化のたち遅れを回避すること、中之島に位置する企業の力を結集することを目的として構想されました。
「中之島芸能センター構想」を4丁目に取り込み、前段の「中之島再開発計画」で検討された歩行者ネットワークの考え方を踏襲しながら実現に向けてより精緻な検討がなされました。パースも1965年からより具現化されています。


そして中之島のものがたりは【現在編】へ
今回は現在の中之島がいかに形づくられてきたのかについて過去を振り返りました。脈々と受け継がれてきた中之島のまちづくりのものがたりはいかがでしたか。
次回【現在編】では過去のまちづくり構想を踏まえ、先人のビジョンはどのように現在の中之島の街並みに反映されているのか、について焦点を当てたいと思います。
中之島のものがたりはまだ始まったばかりです…!

Text:渡邊めぐみ
はれのくに岡山育ち。旅行先では″そのまちならでは″のものを探すのが大好き。でも、だいたい胃袋に直行します。料理とお酒でその土地を味わうタイプです。

Text:南明日香
大阪泉州出身。中高は和歌山に通い、大学では京都暮らし、今は大阪在住と、関西縛りで生きています。プライベートでは1人娘を育てるワーママ。



